少し肌寒く、澄んでる空気。わたしはこのくらいの時間がいちばん好きだ。まだ眠気が滞在している友人に、はどうしてねむくないの、なんてぼやかれてしまった。食堂までの道で友人は忘れ物に気付いたらしく、先に行ってて、と言い残し走っていった。そう言われたものの、先に行って食事を目の前にして彼女を待つというのを想像してみれば、なんだかしっくりこなくて。立ち止まってみた。すると視界には見慣れた紺色を着た、あの人が。
「さん、おはよう」
 朝からゆるりとした笑顔をわたしに向けてくれた雷蔵くん。冷たさが残る頬が、すこしだけ熱くなる。あたたかな笑顔と口調に癒されたわたしは、もしここに友人がいたら冷やかされてしまうのだろうと想像した。すると雷蔵くんは小さなあくびをした。失礼かもしれないけれど、それがなんだか可愛くて、ふふ、とわたしは笑ってしまった。


 その後、ほんの少しだけ他愛のない会話をして、彼は食堂へと去っていった。その背中をみつめていれば、わたしの頬が先程より熱くなっていくのがよくわかった。これが一日の始まりなのだ、と自分に言い聞かせた。じわりじわりと心が満たされていく。ゆるむ口元を押さえれば、後ろからやわらかな声が。
「おはよう、さん」
 振り向けば、雷蔵くんがそこにいた。
「顔が紅いけど……大丈夫?」
 ぱちりと一度だけ瞬きをしたわたしは、目を見開いて固まった。わたしが先ほど頬を染めつつお話をしたのは雷蔵くん。そして今わたしの目の前にいるのも、雷蔵くん。これだけわかってしまえば簡単だった。わたしを全力疾走させるには十分すぎる、鉢屋三郎のお遊び!
「あのやろ、」
 わたしは、少しでも雷蔵くんにいい印象を持ってもらうことに必死だった。だから口調も友達と話すときとは違って静かなものを目指したし、わからないことがあれば図書室に足を運んで勉強するということを欠かさなかった。
 だが今はそんなことを考えて自分を造っている余裕もなく、「野郎」などという乙女が口に出すには不相応な単語を呟き、食堂にいるであろう三郎を目指して廊下をただひたすら駆け抜けた。ふざ、ふざけんな三郎!



 肩で息をしながら食堂に到着したわたしを見るなり、三郎は笑い転げた。迷うことなく先に会ったほうを三郎だと決め付けてしまったけど、やはりこっちで合っていた。どうしようもなく腹が立ったので奴の隣に座って、残っているおかずを食べてやった。三郎は好きなものを最後に食べるという意外とかわいらしいこだわりを持つ。
「三郎、雷蔵くんのふりをするな! ただでさえ見た目は一緒なんだから」
「ああ、そうだな。どうしてかは間違えてしまうからな」
 やめる気は無いが、そう三郎はにやりと下品に笑った。
「さっきのはまるで別人みたいだったな」
 奴の余計な一言がわたしの失態をすくいあげる。ああ、思い返すだけで顔から火が出そう。雷蔵くんと三郎を間違えて、さらに三郎にときめいて頬まで染めてしまうなんて、一生の恥だ。
 穴があったら入りたい、と後悔していると、わたしの隣に朝食を持った雷蔵くんが腰を下ろした。わたしの目は彼の顔を見ることができず、握り締めた自分の手のひらをみつめた。じんわりと温まり、それでいて落ち着かない心が、わたしを焦らせる。ぱちりぱちりと瞬きをすれば、
「さんって意外と活発なんだね」
 と思い出し笑いをしながら雷蔵くんが言った。わたしの顔は凍りつき、三郎は味噌汁をふきだした。その一滴がわたしの頬に当たったので、机に隠れて見えないことをいいことに色々な意を込めて三郎の足を思い切り踏んでおいた。この世に神がいるなら、こいつを黙らせて雷蔵くんの中のわたしの印象を書きかえてもらえるよう願うことにする。



090621