「小松田くん、今のもう一回言って」
「え、どうして」
「いいから」
「ちゃんこわいよ、えっと……利吉さんのところに行ったら矢が飛んできてそれでよくわかんないけど利吉さんに抱きかかえられて助かったんだけど、もう僕びっくりしたよ」

 わたしとは対照的なのほほんとした話し方で、先ほどからこの前の出来事について語っていた彼。はいはいよかったね、と右から左へ彼の話を受け流していたのだが、途中で驚くべき言葉が聞こえたので思わず中断させて繰り返させた。利吉さんに抱きかかえられて、利吉さんに抱きかかえられて、利吉さんに……。確かに彼はそう言ったのだ。別に利吉さんが助けた相手は育ちのよいお嬢様でも、利吉さんに憧れをの眼差しを向けているくのたまでもない。今わたしの目の前にいるドジな事務員だ、しかも性別は男。小松田くんにはあっちの趣味はないらしいから、これは本来ならば嫉妬する対象にはならないはずなのだが。どうも心狭き乙女は止められないみたいだ。
「ひ、ちゃん睨まないでよ」
「別に」
「もう……利吉さんのことになるとちゃん怖くなるよね」
「別に」
 過ぎてしまった日のことを思い起こして溜息を一つ吐いた。わたしも利吉さんのところに行けばよかった。わたしが洗濯物を届けたかった。いや、届けなくとも小松田くんと一緒に出かければよかったのだ。どうして誘ってくれないのよ、と小松田くんを責めれば、涙目で自分の午後からの持ち場へ行ってしまった。
 きっと彼が利吉さんに抱えられているとき、わたしは突然姿を消した小松田くんを脳の隅にやって、学園の入り口で箒片手にあくびをしていたに違いない。思い出すだけでいらいらする。小松田くんにちょっかいを出したくてしょうがないが、もう彼は仕事に行ってしまったし、ということはわたしもそろそろ自分の仕事をしなくてはいけない。心の中で舌打ちをした。

 様々な書類を整理しながら、また溜息を一つ吐けば、わたしから放たれた負の空気がわたしを囲む。すぐに軽い自己嫌悪に陥った、その瞬間だ。
「溜息を吐くと幸せが逃げるんだ、知っているかい」
 突然わたしの隣に現れた人物は、今まさにわたしが頭の中でずっとずっと想っていた、山田利吉だった。もちろん気配なんてわからなかったから、彼がいつこの部屋に入ったのかもわたしはわからない。今聴きたいと思っていた声が、わたしの耳をくすぐった。だから、驚いて肩が大きく震えるのも、仕方が無いのだ。
「ど、どうされたのですか」
 打ち付けるような心臓の音が、とても煩い。どこを見ていいのかもわからず、彼の向こう側にある壁をちらちらと見ながら、わたしはそう尋ねた。
「君の顔が見たくなってね」
 くすりと笑う利吉さんと、その歯の浮くような台詞のせいで、わたしの眉間に皺がよった。これが仕事のときの彼なのだと認識させられた。一歩引いているわたしの視線と態度に、彼はお手上げだと言わんばかりに両手をあげた。 「わかってしまうか」
「当たり前です」
「もっと喜んでもらえるかと思ったよ」
 くだらない冗談はよしてください、とわたしが刺せば、利吉さんはわたしの茶を一口飲んだ。そして何事も無かったかのように口を開いた。
「小松田くんから聞いたよ」
「何をですか」
 彼の手の中にあるわたしの湯呑を取って返事をした。彼が口をつけた部分に触れてしまわないように、小松田くんが淹れてくれたうすくい茶を口に含んだ。
「私と小松田くんの仲に嫉妬しているようじゃないか」
 彼は小さく笑んでわたしの口元にある湯呑を見つめた。ふきだしそうになった茶を喉に流し込んで、机に湯飲みを置いた。山田利吉の鋭い瞳が次に捕らえたものは、わたしの手だった。彼がわたしの瞳を見ないのとは訳が違うが、わたしも彼の瞳を見れないのだ。見つめたら最後、喰われてしまう。
「そんなに怪しい仲じゃない、誤解しないでくれ」
「……何でもいいです」
 誤解をしたわけではないのに、と心の中で呟けば、彼は再びくすりと笑いながらこう言った。
「君は嘘をつくのが苦手だな」
 そしてわたしに近づいて、耳元でささやいたのだ。
「素直になってみらどうかな」
 その一言はわたしの脳を殴っていった。頬が一気に紅くなるのが、鏡を見なくともわかったし、心臓はざわざわとして落ち着かない。頭はなにかを詰め込まれたかのように痛んでわたしを苦しめた。彼のこの自信に満ち溢れた態度、まるで挑発しているように少し釣りあがった瞳と口。すべてが信号となりわたしに何かを訴えている。視界に入った自分の着ている黒色が、すこしだけわたしを惨めな気持ちにさせた。




090609