可愛らしい危険と出会ったとき、笑って助けてくれた幼い君はもういない。

 忘れもしない、四年生の時の野外実習。強い雨が全てを濡らしていた。私の傷口から溢れるどす黒い血でさえも。歩いているだけなのに息は荒くなるばかりで、私はとうとう地面に倒れこんでしまった。その時聞こえた、何かが草の茂みを触れる音。身体を強張らせてそれを待てば、不破雷蔵の姿形をした鉢屋三郎が、冷たく私を見下した。私は傷の痛みに耐えられず涙を流し、心でもひっそりと泣いた。三郎の、命を持たない瞳を初めて見たからだ。もちろん彼が私を助けてくれる筈もなく、ただひたすら友人や先生を待った。
 同級生の顔を借りて完璧に化ける三郎は、いつの間にか中身も私の知らないものへ変わっていってしまった。どんなに仮面を被った彼だってヒトという生き物だ。性格が変わることに憤慨しても仕方の無いことだと、わかっているつもりだが、わかってあげることは私にはできない。


「馬鹿みたい、いつまでその顔続けてるつもり」
 ただの友達でしょう、と寸前まで出掛かった言葉を呑みこんだ。長屋の屋根に座って空を見上げていた三郎をみつけた私は、ここ数ヶ月分の彼に対する怒りを本人に贈ろうと思い、彼の横に立った。
 彼は自嘲的な笑いを私に向けたが、目は私を捕らえない。何も考えずにほろりと零れた、うん、という同意の言葉。その瞬間、すばやく、つよく、私は屋根に倒された。色気も何もあったものではない、彼の手は私の首に食い込んでいるのだから。ぼくたちには関係ない、とでも言うかの様にやけに明るい月の光が、不破雷蔵と瓜二つの髪の毛を照らす。
「気味が悪いと思うか?
 笑えばいい、私を変人だと。
 気の済むまで私を罵ればいい」

「お前に知ってもらう事など、一つもないさ」

 次々と生みだされる彼の叫びが、私の胸に刺さっていく。その中でも一番最後の言葉を聴いた瞬間に、わたしの心臓はどくりと震え、それまで感じていなかった怯えが涙となり目尻を濡らした。十分な呼吸もできない私は、考えることをやめて目を閉じた。
 私が目を覚ましたのは、翌朝だった。太陽が昇っているのを目を開けなくても認識できるし、自分の顔を撫でたら涙の跡に触れられたから、あまり時間が経過していないことが分かった。だがこれだけは分からない、なぜ私は自分の部屋の自分の布団の中にいるのだろうか。ぱちり、ぱちりとゆっくり瞬きをしていると、戸が開けられて、同室の友人が入ってきた。ああそうか、彼女が私を見つけてくれたのか。そう一人で納得していると、信じられない台詞が彼女の口から聴かされた。「驚いたよ、鉢屋三郎がを抱えて部屋に来るんだもの」
 昨夜の恐怖心が蘇り、一気に寒気が私を襲った。絞められた首が、解放されたはずの首が圧迫され、ひゅうと喉が訴える。初めて彼を、気持ち悪いと感じた。一生彼の考えていることを知りたくないと願ったら、再び涙が伝った。





090425 title にやり