もう誰も残っていないであろう教室の戸を引いた。友人から借りた漫画を机の中に忘れてきてしまったわたしは、自宅までの道を引き返して来たのだ。外から自分の教室を見たら、ここだけ電気が消えていたのが見えた。部活を引退して暇を弄んだり受験勉強に励んだりするために、クラスメイト達は早々帰宅したらしい。
 電気を点けて、わたしの心臓は跳ね上がった。まさが人がいるとは思っていなかったからだ。こんな時、のんきに鼻歌をうたいながら入ってこなくて良かったと心から思う。
 机でうな垂れている男子生徒は、深緑の髪とそれよりも少し色鮮やかなバンダナと特長的な姿なのですぐに特定できた。

「ユウジ、何してんの」

 わたしが彼の名を呼べば、両肩をぴくりとさせて小さく返事をした。おぉ、と。会話不成立。おぉ、じゃない。
 目当ての物を鞄の中に入れたわたしは、右斜め隣、もう一つ隣のユウジを見た。元気ないん?とわたしが聞くと、顔を上げないでもぞもぞと喋り始めた。

「家に帰るん面倒臭くてな」

 だぁ、とかそういった気の抜ける言葉を吐き出しながら、ユウジは机の上で腕をひっくり返したりしている。まだ日焼けのあとが残るユウジの肌が捲くった長袖から見えて、何となく目をそらした。意外と逞しくて、血管が浮き出ている腕。

「わたし、長袖まくるより半袖ちょっと折るほうが好き」
「お前の好みとか知らんわ。あ、小春は半袖折っとったなあ」
「女子もワイシャツがよかったわ、それで折ったらそっちのほうが可愛いもん。男子もそっちのがええなぁ、ドキッとするわ。でも小春ちゃんはわたしのタイプと違うしなぁ」
「せやろな」

 ため息混じりに彼は呟いた。半袖を少しだけ折って着るユウジを想像して、心臓が汗をかいた。あかん、かっこええ。
 ユウジのことを意識し始めた中学2年生の秋、平常心を装うことはとても難しいことなのだと実感した。やる気のなさそうなトーンでどうでもいい会話を続けている、ようにも見えるが実際わたしの心臓の鼓動はマラソン後みたいに早くなっている。それにこうやって話すどうでもいい会話だって、わたしの中では今日一番楽しいことなのだ。
 テニスの全国大会が終わってから、ユウジは変わった。前はうるさいくらい小春ちゃんにべったりとくっ付いていて、わたしが小春ちゃんと話す度に鋭い視線を向けていたのに。大会を終えて帰ってきたユウジは空っぽだった。


 一氏な、小春ちゃんにふられたらしいで。と、友達から聞いたのは大会が終わってから何日経った後だったろうか。クラスメイト、いや学校が、コンビ解消か?とざわめいた。でも違う、今まで通りユウジと小春ちゃんは一緒にいるし漫才もやっている。傍から見たら仲のいい友達。だが、今までを知っているわたしたちから見たら、明らかに変わった雰囲気と距離感。
 本当は、知っていた。あのダブルスは好き合っていないことを。わたしの相談によく乗っていてくれていた小春ちゃんは、全国大会前のある日、とあるファーストフード店でわたしに聞いてきた。ちゃんはユウくんのこと好きなんよね?と。その時はどうしようもないくらい動揺した。意識してないのにまばたきを繰り返したり、頭の中は色々な感情がぐるぐる廻って大変だった。頬が熱くなるのをしっかり感じながら目を伏せて頷くと、聞こえてきたのは謝る小春ちゃんの声。
 すぐにわかった。その「ごめんね」は、あたしも好きなの、だから諦めてね。というものではないということを。
 わたしはひどく驚いた。氷しか残っていないコップのストローを吸って、嫌な音を出してしまうくらい驚いた。もはや学校名物と言われてもおかしくないほどに二人の仲は有名だった。有名という二文字では表せないほど。
 小春ちゃんのほうを見ると、とても苦しそうな顔をしていた。これから人を傷つける、そんな怖さと戦っていたのだ。大会が終わったら、部活を引退したら、仮説と言ったら正解のような間違いのような。しかしこれから訪れるそれに向けて、小春ちゃんはわたしにバトンを渡そうとしてくれていた。

『まだ誰にも言ってないのに、どうしてわかったの?』
『んー、乙女の勘よ』


「おい、。置いてくで」

 つい数ヶ月前のことを思い出して意識をどこかにやっていたわたしは、ユウジの声で我に返った。ユウジはいつのまにか制服の上着を着て、教室の出口に立っていた。
「ん、待って今行くわ」

 からっぽのユウジ、それをいいことにユウジの空白に潜り込もうとしているわたし。ずるいとは思うが小春ちゃんやテニス部のメンバーが後押しをしてくれているおかげで、わたしはユウジの前で笑っていられる。最近ではわたしと話したり帰ったりするようになった。きっとわたしはユウジの中で、数少ない仲のいい女友達なのだろう。
 ユウくん単純やからなぁ、ちゃんが優しくしたらコロッといくで!と自信満々の笑みを浮かべる小春ちゃんを思い出して、心を落ち着かせた。今はただの女友達でも、ユウジの頭の中にわたしがいて離れなくなるまで頑張ってやるんだから。そう決意した、中学最後の年。



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