もうずっと忘れないだろう、あなたがわたしにくれた言葉。「お前は綺麗だ」
 かみしめるように、まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくり彼は言った。まっすぐわたしの瞳を見据えて。そのあまりに熱い視線が、わたしの心の臓を焦がす。ほんとうに穴が開いてしまうのではないか、というくらい心が痛んだ。本当は、今すぐにでも忘れたい。

 数センチしか変わらない身長、彼のほうが少しだけ高い。ほんの少しだけ目線を上にやることが、こんなにつらいことだなんて。彼の瞳を見るだけで、きゅうとしまる喉や心臓。彼の、おおきくてごつごつした手がわたしの頬を撫でる。ぞわりと全身が粟立った。自覚無しに震えてしまったのだろう、彼はすぐにわたしから手を離し、謝った。
 すうっと離れてゆく手を目で追うのが、とても虚しかった。けれども全身の力が抜けて、少しほっとしている。そんな矛盾に疑問を覚えた。彼にふれてもらうことで、嬉しくて幸せで満たされていくはずなのに、恥ずかしくて緊張して、こわいのだ。地についていない足が、いつのまにかどこかへ移動して崖か何かから落ちてしまうのではないか。この幸せは、わたしの幸せの頂上なのではないか。そう考えると、ときめいた心も目を覚ます。

 何度も何度も、わたしの名前を呼んでほしい。その鋭い目でわたしを見て、硬く結ばれた唇をゆるませてほしい。彼の声が、わたしの鍵となり、とびらが開けば待っているものは面映い気持ちだ。わたしは彼の手を取り、自らの頬へ誘った。つめたい掌が、じんわりと熱ととける。、と何度もわたしを呼ぶ彼の声は、どうしてだろう、ふるえていた。
 すべて知っていた。教官がこんな状況でもわたしのことを苗字で呼ぶことも、ほんとうはからっぽなあなたの心も、あなたが何かから逃げたくて、その逃げ道にわたしを選んでしまったことも。選んでもすぐ、どこかへ戻っていってしまうことも。わたしだけ、馬鹿みたいに浮かれてしまった、彼の想っている事を何も知らずに。長い間噛んでいたくちの中の皮が、ぷくりと膨らんだ。

090629